大阪 歴史

写本『松山本草』と杏雨書屋 –本草医書の収集に努めた人々の想いをひもとく–

書き手津村佳史子

「薬のまち」といわれる大阪・道修町(どしょうまち)に公益財団法人武田科学振興財団の管理する「杏雨書屋(きょううしょおく)」がある。同館は東洋の医薬古典籍を中心に国宝3点、重要文化財14点を含む約4万点15万冊の蔵書を誇る日本有数の図書資料館だ。

 杏雨書屋に一冊の写本が収蔵されている。奈良県宇陀市にある国指定史跡・森野旧薬園が所有する『松山本草』の唯一の写本である。

 写本が作られたのは1943(昭和18)年12月。日本が太平洋戦争へと突き進んでいたさなかのこと。武田科学振興財団学芸員の瓢野さんによると、模写した人物は里見米山人だという。森野旧薬園顧問・森野燾子(てるこ)さんは、「武田薬品から来た京都の絵描きさんが(資料を)写された」という先代の話を記憶していた。

 写本の巻頭ページには「石水亭にて模写した」と記されている。石水亭は薬園の入り口をくぐると、真っ先に見えてくる家屋だ。門外不出とされた『松山本草』。燾子さんが伝え聞くところでは、「(当時)薬園の向かいにあった旅館から武田薬品(の社員)さん方が通って」模写していったそうだ。

 戦時中にもかかわらず、写本は見事な出来だった(下図)。絵師の手配、画材の調達、宿泊費等にかかる経費はどれほどであったろうか。戦時下で貴重な書物の保存・収集に携わった人々のことが、知りたくなった。

里見米山人による写本『松山本草』カタクリの図ほか(武田科学振興財団 杏雨書屋所蔵)

杏林(医学界)を潤す雨のごとく

 杏雨書屋は、武田長兵衞商店(現・武田薬品工業)の五代武田長兵衞氏(隠居後に和敬と改名)によって創設された。和敬翁は1923(大正12)年に起きた関東大震災で、貴重な書物が焼失してしまったことを憂い、和漢の善本を収集して、社会のために役立てようと思い立ったという。

 そこで当時武田薬品の社員だった伊藤純一郎氏に、日本および中国の本草医書を集めるよう指示された。伊藤氏は新薬の拡張関係の仕事に携わる傍ら、医薬書の収集に奔走。

 1935(昭和10)年には武田薬品研究所図書室の書庫が完成し、集められた一大蔵書に杏雨書屋という名がついた。「杏雨」の由来については、『武田和敬翁追想』(武田和敬翁追想録編纂委員会、1960年)に収録された武田薬品工業社員らによる座談会の中で、杏林に雨のごとく降った古書ではないかと推測されている。命名者は社員の一人、大賀寿吉氏であるらしい。和敬翁と親交のあった法隆寺の管長・佐伯定胤氏の筆を写した「杏雨書屋」の扁額は、今も同館展示室に飾られている。

 こうして和敬翁と伊藤氏を中心に、古書の収集・保存に情熱を注いだ多くの方の尽力により、杏雨書屋は1942(昭和17)年に刊行された『日本文庫史』(教育図書)に「植物学の二文庫」として紹介されるほどになる。

杏雨書屋の展示室の様子(現在の展示は「武田長兵衞と杏雨書屋」)

医薬書の研究所・博物館を目指して

 2013(平成25)年、杏雨書屋は財団設立50周年を機に、武田薬品工業創業の地・道修町にある武田薬品旧本社ビルへ移転した。道修町には武田薬品工業のほかにも、田辺ファーマや塩野義製薬などの製薬会社の資料館が点在し、「道修町ミュージアムストリート」と呼ばれている(塩野義製薬の展示コーナーは休館中※執筆時)。

 杏雨書屋では資料の閲覧・保存・修復以外にも、出版物の刊行、研究者による蔵書の学術的な調査・研究も行われている。また1階にある展示室では常設展示のほか、年に2回ほど特別展示や研究講演会が開催されるなど、博物館的な機能も果たしてきた。

「人々の知的好奇心を刺激する文化施設として公開するとともに、本草医書の図書資料館として温故知新となる貴重な資料を次世代に引き継ぐ役割を担っている」と真剣な面持ちで語る瓢野さん。

 和敬翁の想いから始まった杏雨書屋は武田科学振興財団に引き継がれ、これから100年先も貴重な本草医書を守り続けていくことだろう。

企画展示のお知らせ

 現在杏雨書屋では、企画展示「武田長兵衞と杏雨書屋」が開催中(2027年2月12日まで)。五代目と六代目の武田長兵衞氏に関わる所蔵品を中心に、貴重な資料が一堂に会する。本記事で紹介した写本『松山本草』も展示されているので、ぜひ足を運んでいただきたい。

会期 2026年2月9日(月)~2027年2月12日(金)
開館時間 10:00~:16:00(土・日・祝は休館)
料金 無料

※展示物は随時展示替えあり。詳しくは公式サイトへ

アクセス

公益財団法人武田科学振興財団 杏雨書屋
住所 大阪府大阪市中央区道修町二丁目3番6号
URL https://www.takeda-sci.or.jp/kyou/

書き手

津村佳史子

関西在住。大学図書館、専門図書館の司書を経て、現在はフリーランスの校正者に。ライターとして丁寧な取材・調査を通して、インタビュイーの想いをくみ取れる文章を書くよう心がけています。 note:https://note.com/asa_hateno

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