大阪 文化

玉造稲荷神社-江戸時代に大流行した「おかげ参り」の起点の1つ-

書き手南 佑弥
玉造稲荷神社本殿

多くの人々を魅了したおかげ参り

 おかげ参りとは、1650年頃から約60年周期で行われた、伊勢神宮への集団参拝のことである。多い時には500万人もの人々が伊勢神宮に参ったという(その間、個人や小集団での参拝もあった)。参拝者は近畿をはじめ関東や四国など、全国各地から訪れた。人々が60周年周期で伊勢を目指した理由は明らかになっていないが、飢饉や一揆から人々の関心を逸らすための政策の一つであるとか、旅の斡旋を務めた御師(おんし)と呼ばれる人々が、旅人を伊勢へ向かわせて経済的利益を得るために誘導したという説などがある。

安心して旅ができるシステムを作った浪花講

 大阪城の南に位置する玉造稲荷神社は、おかげ参りの西の玄関口と呼ばれている。その背景には、この地で結成された浪花講という組合の存在がある。大流行したおかげ参りだが、道中の宿でのぼったくりなどが問題となっていた。そこで組織されたのが浪花講である。浪花講は、組合に加盟した宿に対して、ぼったくりや賭博の禁止を命じた。旅人は浪花講の宿であれば安心して泊まることができ、宿側も安定して客を取ることができる仕組みだった。
 浪花講の発祥地は玉造稲荷神社から徒歩10ほどの分社にあたり、江戸時代に作られた石の道標が今も残っている。浪花講は宿帳や地図などの発行も行っており、玉造稲荷神社には、当時の史料が多く保管されている。

おかげ参り文化の伝承

 江戸時代の人々が歩いていた道(伊勢本街道)は、道路開発などでルートが複雑になりながらも現存している。当時のおかげ参りの文化を残すため、地元住人が看板を設置したり、玉造稲荷神社では公式マップの発行が行われている。
 また、当時の文化を伝える代表的なものとして、「玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)」がある。江戸時代に玉造で作られていた名産品で、漬物は保存がきくため旅のお供として重宝されたが、近代化が進むとともに栽培地は減少し、明治時代に玉造からは姿を消してしまう。しかし、宮司の鈴木伸廣さんと農学博士の森下正博さんが中心となり、府内で保存されていた種を活用し、100年以上の時を経て、2002年に玉造稲荷神社境内での栽培に成功した。それ以降、毎年7月15日に神社で行われる食味祭で玉造黒門越瓜を使った料理が提供されている。

変わり続ける旅のかたちを残す

 旅は電車や飛行機で目的地を目指すものとなり、歩いて旅をするという文化は少なくなった。今は目的地についてから何をするのかが旅の醍醐味だが、江戸時代は目的地に着くまでの過程にも楽しみがあった。宿に泊まり、ご当地の料理を食べ、道中で出会う人々と言葉を交わす。変化する景色や風土を味わいながら、ゆっくり進んでいく。
 速くいろいろな場所に行くことと、時間をかけながら歩くこと、両方可能になった今では、組み合わせ次第でより楽しい旅ができ、これからも旅の形態は変化していくだろう。
 私たちがどのように旅をしてきたのかを知り、新しい旅の形を模索するうえで、玉造稲荷神社や伊勢本街道、おかげ参りの文化を残すことは、未来にとっての大切な手がかりとなる。

写真説明
上左/江戸時代に描かれた玉造稲荷神社
当時は舞台が建てられていたが、戦争によってなくなった(史料協力◎玉造稲荷神社) 
上右/浪花講が発行した当時の地図(史料協力◎玉造稲荷神社) 
下左/玉造稲荷神社分社。境内には江戸時代から残る石の道標が見られる 
下右/2002年に神社の境内で栽培に成功した、かつて玉造の名物だった玉造黒門越瓜の漬物

DATA
玉造稲荷神社
住所:大阪市中央区玉造2丁目3番8号
アクセス:JR・大阪メトロともに「玉造駅」または「森ノ宮駅」から徒歩約10分
電話:06-6941-3821

書き手

南 佑弥

1999年、奈良県生まれ。同志社大学体育会ワンダーフォーゲル部出身。 登山活動をはじめ、東海道五十三次や四国横断など、1000km以上の歩き旅を経験。アメリカやヒマラヤでもトレッキングを行ってきた。最近はシーカヤックにも取り組む。 旅の記録をブログで発信するほか、滋賀の同人文芸誌『文芸エム』に紀行文と随筆の2作品を寄稿。山岳雑誌『岳人』の編集を1年半担当していた。

南 佑弥の詳細ページへ →