薬草のまち・宇陀 -300年続く私設の薬園を訪ねて-

奈良県宇陀市の旧松山街道沿いに、葛粉の製造・販売などを行う老舗森野吉野葛本舗がある。趣のある店舗の裏山に広がるのが国の文化財史跡森野旧薬園だ。同園顧問の森野燾子(てるこ)さんに案内され、山の斜面に沿って幾重にも折り返す石段を上がった先、宝物庫の脇に俳人青木月斗の句碑がひっそりとただずんでいた。
菜園の 風露に秋の 近つきぬ――
折しも秋が深まりつつある10月下旬(取材時)。薬園は虫の声一つなく森閑としていて、おのずと300年続く歴史に思いをはせた。
江戸中期、幕府の財政悪化を受けて八代将軍徳川吉宗は享保の改革を押し進めた。薬種の国産化政策を掲げ、朝鮮人参などの高価な漢薬種の代替品を国内に求めたのだ。こうして日本全国に採薬使が派遣されるとともに、多くの薬園が誕生した。
森野初代藤助通貞(号:賽郭、以下賽郭)は、近畿地方に派遣された採薬使植村左平次の調査に随行し、4度に及ぶ採取旅行を補佐した。その功績が認められ、賽郭は吉宗より貴重な中国産の薬草木6種を拝領し、1729(享保14)年に森野旧薬園を創始する。
明治時代に入り西洋医薬の輸入による漢方薬の需要の減少と廃藩置県に伴い、多くの藩営薬園が姿を消していくなか、森野旧薬園は現在も往年の姿をとどめている。まさにその存在自体が、貴重な文化遺産といえるだろう。
薬園の持つ希少価値を早くから見いだしたのは、大学の研究者らであった。薬園に残る芳名録には、東京帝国大学の教授白井光太郎氏や植物学者の牧野富太郎氏の名が見られる。また2010年度から大阪大学の研究プロジェクトにより、薬園の調査や賽郭の手による動植物図譜『松山本草』の電子データ化が行われるなど、学術的にも注目されている。
さまざまな環境の変化に試行錯誤の日々
薬園の石段をさらに上がっていくと、桃岳庵と呼ばれる茅葺き屋根の建物が見えてくる。賽郭は晩年、この桃岳庵にて『松山本草』全10冊を描き上げたといわれている。燾子さんいわく、「写生してあるのは、畑の薬草を取ってきて、見ながら写したんでしょうね。晴耕雨読という感じでね。昔のことですのでゆったりと。それでも1000種類の薬草類を描くには15、6年かかったようですが」。
桃岳庵を東に出た小道の下方に広がる圃場には、多くの薬草木が植栽されている。近年宇陀松山城跡につながる道路が整備されたことで、肥料や荷物の運搬が半減され楽になったそうだ。その半面、鹿などの野生動物の侵入が増え、貴重な薬草の根を食べられてしまうこともあるという。現在薬園には宇陀市が設置したフェンスに加え、同園を管理する原野悦良さんお手製の動物よけが急な坂に面して張り巡らされている。
森野旧薬園は近代的な植物園の管理法とは異なり、自然実生や蟻などの昆虫の介在による半栽培が行われてきた。これは里山などで見られる保全方法で、より自然に近い多様な環境を維持していく必要がある。しかしここ数年、地球温暖化による夏季の水不足や日照時間の増加が薬草に及ぼす影響は深刻化しているという。
加えて頭を悩ませるのは後継者の問題だ。現在薬園の管理を一手に担う原野さんも高齢となり、薬園を次の世代へと引き継いでくれる担い手を探している。「日々の薬草の管理というのが一番大切かと思います。ただ畑の仕事ができるだけではダメなんですね。やっぱり知識とか、薬草に対する愛情とかそういうのがないと」と燾子さんはいう。

先祖が残してくれたものを守り続ける
300年もの間薬園を守ってきた森野家の方々。目まぐるしく変化する自然環境のなかで、園内の約250種類にも及ぶ薬草の性質を「見分ける力」をもつ管理者の存在も、森野旧薬園を未来につなぐのには欠かせない。「先祖がせっかく残してくれたものを(私たちの代で)取り壊すのは、申し訳ないという気持ちでやってきた」。穏やかな口調で語ってくれた燾子さんの表情からは、その重責と矜持が感じられた。
薬園の入り口に引き返す途中、燾子さんが「この薬園の主」と呼ぶサンシュユの古木を教えてくれた。賽郭が江戸幕府から授かった6種の薬草木の一つで、春には黄色い花を咲かせるという。うろも目立つその姿には、森野旧薬園の歩んできた長い歴史が刻まれているようだ。原野さんの手によって古木から分けられたサンシュユの若木は、100年先には大樹となっていることだろう。
賽郭は 未だ死にもせず 生きもせず
春秋 ここに楽しみぞする――
ふと賽郭の辞世の句が脳裏をよぎる。初秋の涼やかな風が吹き抜けていくなか、黙して語らぬ薬園の主の姿が、確かにそこにはあった。
アクセス
| 名称 | 国指定 文化財史跡 森野旧薬園 |
| 住所 | 奈良県宇陀市大宇陀上新1880 |
| URL | https://morino-kuzu.com/kyuyaku |